
今すぐ聞きたい不用品のこと!
一九五七年に、O事務次官が。
軍政時代を懐かしく思い、昔の任地であるシンガポールを訪ねた。
このとき、軍政犠牲者の遺族が憲兵隊に虐殺された犠牲者の死体を埋めた場所を聞きだそうと、大挙してホテルに押しかけたので、大急ぎで逃げ出し、空港の裏口から入れてもらい、一番早い飛行機に搭乗して急いで出国したそうである。
この事件は、シンガポールの新聞には大きく報道されたが、日本の主要紙の外報部は些細な事件とみなして、この外信を記事にしなかった。
この体験をうかがったのは、同氏が文部省を退官して、日本育英会の会長であった一九七〇年代前半である。
日本育英会が設立された当時は、朝鮮半島出身者に奨学金を支給していたのに、戦後になって打ち切ってしまった。
そのいきさつを聞きながら、TさんといっしょにO氏の回顧談を拝聴していた私は、シンガポールでのエピソードを聞き、口からこぼれそうになる「なぜ逃げ出したんですか」という言葉を飲み込みながら、複雑な気持ちであった。
その気になれば、日本政府も当事者も謝罪の言葉を表明する機会がなかったわけではないのである。
文部省が日本の侵略戦争を教えようとせず、政府が戦場となったアジアの犠牲者に謝罪しようとしないため、いつまでもわだかまりが残りつづける。
私たちは、もっと歴史から学ぶ必要がある。
戦時中のインドネシア兵補の給料は一定部分が「軍政貯金」という名前で、天引き貯金されていた。
また、給料の三分の一は家族に支給されていると告げられながら、実際には支払われていなかった例が多い。
一九八九年からジャカルタに『元兵補連絡中央協議会』が作られ、未払い給与の請求を日本政府におこなっている。
一九九〇年九月日、バリ島の農村調査をおこなっていたとき、私はこの協議会が発行する元兵補証明書を持つ村の鍛冶屋さんに会った。
七一歳のKさんである。
バリ島から海軍兵補として徴用されたKさんは、フェウシ島のウジュソパンダソで訓練を受け、ジャワ島のスラハヤ基地で勤務したそうである。
私たちの前で姿勢を正して、「君が代」と海軍の軍歌をうたってくれた。
大日本帝国海軍の兵補として、ジャワ海で死んでいった仲間たちを忘れることかできないそうである。
兵補という言葉は思い出したくないのに、君が代と日の丸の教育には熟心な人たちは、アジア各地で日本軍のために青春を捧げたアジアの人びとの声を聞こうとしないのだろうか。
秦緬鉄道を訪ねて[労役に就いた者が、枕木四本にひとりの割合で亡くなった]と話す泰緬鉄道の憲兵隊付き陸軍通訳だったNさんの証言は、じつに重い。
その強烈な印象が鮮明なうちに、鉄道建設の犠牲になった人びとの墓地を巡る機会を得た。
一〇年以上も前から、東京大学教養学部のN教授を中心に数名のグループで、目印関係の研究会を続けている。
今回の調査旅行は、その一環としてインド国民軍と日本軍政に関する一次資料を収集しようとする試みである。
インド国民軍とは、第二次世界大戦中に日本軍と協力して、インパール作戦をともに戦ったインド人軍隊のことである。
大本営の陸軍参謀本部第八課では、英米との開戦前から、インド独立連盟の協力を得て、東南アジアに駐屯している英軍のインド兵を捕虜にし、反英運動に結集させる工作を準備した。
開戦から二、三ヵ月のうちに、英軍から投降した数万人のインド人兵士を中心にして、インド国民軍か組織され、昭南市と改名したシンガポールに本部を置いた。
この運動は紆余曲折を経たが、ベルリンに亡命中のインド独立運動の指導者が合流するとともに、インド臨時政府を樹立した。
私たちは、このインド国民軍の成立から解体までの道筋をつぶさにたどり、それがアジアの現代史に何をもたらしたがさまざまな角度から検討を加えたいと考えている。
しかし、日本の小さな研究グループだけで成し遂げられる仕事ではない。
東南アジアやインド亜大陸の研究者はいうまでもなく、ドイツやイギリスの史料を活用するためにも、国際的な研究協力を要する課題である。
ガンディの運動はインドだけでなく、全世界で高く評価されている。
だがチャンドラ・ボースの運動は、日本軍と協力関係にあった事情から、評価の定まらない、扱いにくいテーマである。
多くの研究者がためらっているあいだにも、当時の資料は散逸し、戦場から帰還した人たちも老齢化しがちだ。
古い記憶を思い出し、口述してもらえる期間も残り少ない。
日本国内でも、東南アジアやインドでも、私たちは多くの関係者に会い、インタビューしたいと考えている。
一九九一年九月六日に私は大阪からバンコクに飛んだ。
翌日、旧英領インド省公文書館で当時の記録を調べていだN教授(東京大学東洋文化研究所)が、ロンドンから着き合流した。
ワシントンの議会図書館で資料調査をしていたNさんが着いた一〇日の早朝から、クウェヤイ川に架けられている橋の調査旅行が始まった。
NさんもSさんも、インド史研究で優れた研究業績を上げている。
インドでもよく知られた歴史家である。
いちばん不勉強の私は、史跡をともに歩き、聞き、見ることによって、現代史研究のむずかしさを教えてもらった。
調査の第一日めは、泰緬鉄道の出発点であるカソチャナブリを訪ねた。
メクロン水系の支流であるクウェヤイ川に架けられた鉄橋は、現在も列車が運行され、多くの観光客を集めている。
泰緬鉄道の実状よりも、英国の軍人精神を描くことに熱心だった映画『戦場に架ける橋』は、スリランカのカル川で撮影された。
一〇回以上もカル川の狭い撮影現場を訪ねた私の眼に、風光明媚というよりはかないカソチナブリの広大な景観は、違和感を感じるほど対照的であった。
記者の案内で、維持管理のゆきとどいた、イギリス軍、オランダ軍などの兵士が埋葬されている墓地を訪ねた。
鉄道建設労働者の収容所跡の砂糖キビ畑では、今年になってインド人と思われるロームシャ数十名分の遺体が発掘された。
その現場も見た。
畑の耕作も、遺体の発掘も中断されたままになっている。
みどり豊かな、美しい観光地でも、日本の戦後処理は終わっていないのである。
インド国民軍と日本軍一九四一年一二月七日の深更から早暁にかけて、大日本帝国陸軍の第三五軍は、マレー半島への侵攻を開始した。
タイ側のシンゴラとパタニおよびマレー側のコタバルの三地点で、上陸作戦が展開された。
国境地帯に配備されていたイギリス軍兵士の大半は、インドやネパールなどの南アジア出身者であった。
大本営の陸軍参謀本部第八課が指導する諜報活動に加わったF機関とバンコクを拠点にしていたインド独立連盟は協力して、イギリス軍内のインド兵の投降を呼びかけた。
インド独立運動の多くの活動家たちは、海外に亡命していた。
そのため東南アジアにおいてインド国民軍を組織し、日本軍と協力して植民地支配からインドを武力解放し、政治的な独立を達成しよう、と夢見たのである。
日本軍の進撃に対する、イギリス植民地軍側におけるインド兵部隊の抵抗は弱かった。
翌年の二月一五日、大英帝国によるアジアの植民地支配の要であったシンガポールが陥落し、イギリス軍は無条件降伏をした。
このとき、日本軍兵士は、軽装で自転車に乗ってマレー半島を南下した。
重装備のイギリス軍兵士とは対照的であった。
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